太田あさひの日誌

旧・中西香菜さんがおすすめの映画をひたすら観るブログ。アンジュルムの中西香菜さんがおすすめする映画の感想だけでなく、旅行や考えごとについて書き残す。

不寛容な社会への警笛 - 映画『ジョーカー』ネタバレ感想

※このブログは「アイドルグループ・アンジュルムのメンバーである映画大好き中西香菜さんがブログやラジオ等で紹介している映画をひたすら観てひたすら感想を記すというアイドルオタク活動の一環の映画ブログ」である。何が何だかわからないと思うが、これ以上でも以下でもないのでどうしようもない。映画の感想自体は普通に書いているので安心してほしい。

 

2019年10月4日公開の映画『ジョーカー』を早速映画館で観てきた。R-15作品だし、てことはグロそうだし、予告編はなんか怖そうだし、ジョーカーって確かバットマン?に出てくる悪役だし、でもバットマン観たことないし、もう本来なら絶対に観に行かない作品だけど、中西香菜さんが観たいと仰っていたので観た。我ながら盲目すぎて頭を抱えたくなる。

 

上の中西香菜さんのブログを読めばわかるように、おそらく中西香菜さんはまだ『ジョーカー』を観ていない。いつもは中西香菜さんの感想を読んでから観るのだが、今回は先取りである。たのしい〜! なにこれ〜! わたしが先に観た映画の感想を後で中西香菜さんから聞けるかもしれないってなに! 夢がある! 友達同士かよ! 絶対に感想をブログかラジオで述べてほしい! 一文字でもいいので!

 

あらすじは以下の通り。

バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。

引用元:ジョーカー : 作品情報 - 映画.com

アカデミー賞は確実」と言われている超良作らしい。SNSで軽く感想を調べると「観たら鬱になる」とかいう不安だけを煽るよくわからない感想や「アメリカでは映画館に警察官が詰めるほど問題視されている」などの「アメリカこえぇ!某国共産党かよ!」みたいな情報を見つけてどんどんハードルが上がっていく。変に調べてネタバレに当たっても仕方ないので、思い立って数分でチケットを確保して映画館へ向かった。

 

※ここから先めっちゃネタバレなので注意。もうなんか感じたことが多すぎてまとまってないと思うけれど、とにかく中西香菜さんより先に感想を世に出すのが目的なので許してほしい。

 

結論から言うと、不寛容な社会に警笛を鳴らす社会派映画だった。

といっても、わたしは「この映画は貧困と格差を描いた映画である」だとか「アーサーがジョーカーになったのは社会のせい」だとか言いたいわけではない。むしろ、アーサーのためには、それは絶対にちがうと言ってあげなきゃいけないと思う。わたしが言いたいのは、貧困や格差と言った社会の闇の部分の存在それ自体は確かに「社会のせい」だと思うけれど、この映画をアーサー個人の物語として観てみないことには、結局のところこの映画が描いていた社会の闇の部分というのはなんだかよくわからないままなのではないか、ということだ。つまり、この映画は、「個人が抱えている生きづらさ一つひとつにフィーチャーせずに社会問題を語ることは不可能でしょう?」ってことに観客が気づかないと、この映画は単なるサイコホラー映画になってしまう、というトリック構造になった問題提起の映画だと思うのだ。

 

では、「この映画が描いていた社会の闇の部分」とは、一体なんだったのだろう。わたしは、「人びとに余裕がなく他者に対して不寛容になっていること」だと思う。

 

映画では、アーサーの怒りと社会の怒りとのズレが度々描かれていた。

アーサーの怒りというのは、精神障害を抱える自分を変人扱いし、一切信用せず、話すら聞かず、バカにするような人々への怒りだ。

例えば、若手商社マン3人を殺した事件を、アーサーは「奴らが音痴だったから殺した(=裕福だったから殺したわけではない)」と語る。これは、暗に「僕の苦しみを社会問題の文脈で簡単に語ろうとするな」という怒りを含んでいるのではないだろうか。「音痴だった」というのはあくまで殺す“きっかけ”だろう。「音痴だった」という些細なことがが殺しの“きっかけ”になってしまった背景(=アーサーの抱えきれないほどの生きづらさ)が無視されてしまうことに、アーサーは怒りを感じていたのではないだろうか。

まだある。例えば、面談で定型質問しかしないカウンセラーに「僕の話を聞いてくれたことは一度もない」と訴えるアーサーは、自分の苦しみが精神病というカテゴリーに当てはめられて定型的に処理されようとしていることに怒っているのではないか。他にも、アーサーの言い分をろくに聞かずに解雇処分を下す上司、アーサーを気味悪がって怯えるソフィー、母をキチガイ扱いしかしないウェインなど、アーサーは自分を受け入れない人間に対してとても怒っている。たとえそれがその人にとっては「正当な振る舞い」であったとしても、だ。アーサーがマレーにぶつけた「僕が道端で死んでいたら踏みつけるだろう?」という言葉に全てが詰まっていると思う。死んでも誰も自分のことを気に留めないというのは、想像を絶する苦しみだ。

唯一、アーサーに優しかったのは小人症の同僚・ギャギーだけだったというのも皮肉的だ。程度に差はあれ、ギャギーがアーサーと同じように虐げられる人生を送ってきているのは間違い無いのだから。(関係ないけど、アーサーがギャギーのことは殺さずに逃がしてあげる場面の演出は完全にホラー。そこだけめっちゃビビって観てた。たった1分程度のシーンだけどアレの1京倍は怖かった。)

 

このようなアーサーの怒りに、社会の怒りは都合よく乗っかってくる。

社会の怒りというのは、格差社会を生きる貧困層の不満だ。貧困層は苦しい生活を強いられお互いに搾取し合っている。富裕層は優雅にめかしこんで安全地帯から世の中を語る。そんな富裕層に貧困層は不満を抱いている。そんな不満を持った人びとは、アーサーが若手商社マン3人を殺した事件を「富裕層への不満を募らせた貧困層の復讐」だと持て囃し、デモ(やがて暴動になる)が始まる。

もう一度確認するが、アーサーにとって3人を殺したことは「富裕層への復讐」なんかではない。ここに、アーサーと社会のズレがある。アーサーは社会に利用されているという見方もできるかもしれない。

そして、複雑なのが、富裕層までもがアーサーを「貧困層の怒りの象徴」として捉えているところだ。だからこそ、ウェインはニュース番組でアーサーを「顔を隠して人を殺すという卑怯なやり方でしか政治的な意思表示をできないピエロ」と評する。そして、アーサー個人の怒りと貧困層の怒りの両方を買うことになってしまうのだ。

 

ゴッサム・シティの人びとは、余裕がなく不寛容だ。貧困層は不満のはけ口を常に探しているし、富裕層は貧困層を見下している。思いやりのない不寛容な街だ。そこに突如現れたアーサー(の起こした殺人事件)は、この街を暴走させるのにピッタリだったのだろう。

貧困層に支持され、富裕層に非難されるアーサー。しかし、そのどちらの主張もアーサーにとっては的外れで、社会とのズレを感じながら余計に「誰も自分のことを気に留めない」という気持ちを深めていく。

「人びとに余裕がなく不寛容な社会の危うさ」が、この映画が描きたかった「社会の闇」なのではないだろうか。

 

悲しいのは、アーサーが抱える圧倒的な生きづらさは、誰のものでもないアーサー自身の生きづらさであると同時に、社会が生み出した生きづらさであるという点だ。アーサーが抱える生きづらさは多様で、そのどれもが深刻だ。出生の秘密、母の介護、虐待、養育環境の悪さ、母子家庭、貧困、精神病、社会的信用が無いこと…。昨今のニュース番組で「痛ましい事件の背景」として紹介されているもののオンパレードである。そしてこの背景のどれもが「この事件はこの犯人だけの責任なのだろうか」と考えさせられるものなのだ。確かに、犯人が悪い。でも、その背景は? 事件の背景(もしくは犯人の生い立ちの背景など)に「わたし」の存在は少しもないとは言い切れない気持ちになる人は少なくないだろう。

 

そういった文脈で考えてみると、たしかに「ジョーカー」を作り出したのは、社会だ。けれど、やっぱり、その恐ろしい社会を形成しているのは、わたしたち一人ひとりの不寛容な態度だとわたしは思う。このことに気づいても、わたしたちは不寛容にならざるをえないかもしれない。なぜなら、この忙しい現代社会において、人びとは他人を思いやる余裕が奪われているからだ。

道行く人全員を思いやっていては疲れてしまう。愛情は周りの大切な人にだけ注げば十分だ。その結果、不寛容になってしまったとしても、しかたない。と、わたしは思う。けれど、同時に、それでは誰からも愛されない「だれか」がいるかもしれないことを忘れてはいけないとも思う。もし、その「だれか」に出会ったとき、誠実に向き合う余裕を持ち合わせていたい。その「だれか」はいつでも「わたし」になりうる危うい世界だからだ。(という「人に優しくありたい理由」までもが自己中心的であるのがどうしようもない。この世はなんなんだ。)

 

最初に述べたように、この映画は、一見すると、単なる狂気人間のサイコホラー映画 もしくは アメリカ社会の格差問題に一石投じるアメリカ映画 になってしまうと思う。でも、そうじゃないでしょう。一人の人間が抱えていた生きづらさの話でしょう。その生きづらさが社会に利用されて、狂気を呼び起こされてしまった話でしょう。その社会は不寛容で思いやりに欠ける「現代社会」の鏡なんでしょう。そういう問題提起の映画なんでしょう。と、思う。

 

「ジョーカー」が街中で暴動を起こす貧困層に囲まれ、持て囃されるシーンで、彼は、最初は戸惑っているように見える。しかし、その戸惑いの一瞬後、彼は笑顔で踊り出す。そこで初めて、物語が進むにつれ少しずつ「ジョーカー」としての自分に悦びを感じているアーサーもいたことを否定できないことに気づかされる。こ、こわぁ…。彼は初めから狂気の塊だったのだろうか。それとも、徐々に変貌していったのだろうか。それとも、狂気を演じているのだろうか。彼のなかの怒りや戸惑いはどこにいったのだろうか。「アーサー」ではなく「ジョーカー」として社会に歓迎された彼の心中を、ああでもないこうでもないとずっと考えている。

 

と、いうふうにあれこれ考えたストーリーもどこからか全てアーサーの妄想だったかもれないというのがまたなんとも…。全て妄想だったかもしれないし、全て本当かもしれないし。なんだよこれは。この映画は一体どれだけわたしを混乱させるのか?

そして、「バットマン」シリーズ(?)に全く詳しくないのでよくわからないのだけど、「バットマン」に出てくるジョーカーってアーサーのことなの? ラストの病棟?シーンを見てたら違うような気がするけど…。アーサー捕まってるし。アーサーに代わってウェイン夫妻を殺した謎の人物が「バットマン」に出てくるジョーカーなのでは? そうなると、「ジョーカー誕生の秘密」というキャッチコピーは、アーサー個人の悲劇(それも社会が生んだものだけれど)から始まり、「社会の闇」がアーサーを「ジョーカー」に成長させ、それに乗じたのか崇拝の心を持ったのかはわからんけど「ジョーカー」の名を受け継ぐものが生まれたというトリプルコンボを表していることになる。すげーな。バットマン、おもしろそー。しかし、何から観たらいいのやら…ありすぎてさっぱりわからぬ。中西香菜さん、助けて!

それにしても、解釈違い同士が仲良くできなさそうな映画である。果たして、中西香菜さんの感想はどうなるのだろう…。そもそも感想書いてくれるかなあ。書かなくてもいいけどね。推しに多くを望むことは時に暴力になりうる。特に、中西香菜さんは卒業目前なのだから、楽しいことだけ、やりたいことだけをいーっぱいやってほしいなあ。もし、中西香菜さんがどこかで感想を述べるようなことがあったら追記 or 新記事投稿しようと思う。