太田あさひの日誌

旧・中西香菜さんがおすすめの映画をひたすら観るブログ。アンジュルムの中西香菜さんがおすすめする映画の感想だけでなく、旅行や考えごとについて書き残す。

堂々めぐりのなかを生きていく − 『生のみ生のままで』を読んで

前回に続いて綿矢りさの『生のみ生のままで』を読んだ感想。というよりも、派生して感じたこと。

 

同性と恋愛関係にある、と逢衣と彩夏に打ち明けられた周囲の人の描写がとてもリアルだったところに、わたしは傷ついたし、同時に、ほんとうにわたしと同じ苦しみを味わっているふたりが描かれていることが証明されている気がして安心もした。

わたしも、同性愛者であることを打ち明けたことは何度もある。しかし、本当に理解してもらったことは、わたしは一度もないと思っている。今後、理解してもらえることもないと思う。ただ、自分に嘘をついたまま誰かと親しくなりたくないから、打ち明けているだけだ。わたしが異性に恋する気持ちが微塵もわからないのと同じように、異性愛者に同性愛者の気持ちなどわかるはずがないのだから、困惑するに決まっているし、気持ち悪いと思われる可能性が多分にあることもわかっているつもりだ。けれど、面と向かって嫌悪感を示されたことは一度もない。その点、周囲の人にはとても感謝している。けれど、理解してもらったことはない。言葉や態度の節々からそう感じる。

「全然気にしないよ」と笑って受け入れてくれた友人が「もしかしてわたしのこと好きじゃないよね?」と不安な顔で聞いてきたこと。「中学生の頃からなんとなくそうだと思ってた」と言ってわたしの過去を少し救ってくれた友人が「もうちょっと男っぽくしたら女の子も落とせるんじゃない?」とアドバイスをくれたこと。恋バナを聞いてくれていた友人がわたしを男女の合コンに誘うようになったこと。失恋して落ち込むわたしを見かねた友人が「でも男の子も好きになれるんでしょう?」と声をかけて励ましてくれたこと。数年ぶりに会った友人が、わたしのカミングアウトなどなかったことのように、わたしを異性愛者として扱うこと。思い出せばきりがない。

全部ぜんぶ、わたしを理解なんてしていない。わたしがあの人に抱く恋心が、あなたが恋人に抱く恋心と同じだと理解していない。けれど、彼ら彼女らに悪気はない。

こんな言葉をかけず、態度にも出さず、ただただ普通に接してくれる友人だって、何人もいる。そんな友人たちにはほんとうに感謝しているし、大好きだ。けれど、友人が、なにかわたしを傷つけるような感情を持ったときに、意図的に隠そうとしている様子に気づいてしまうことがある。それを、さみしいと感じるのは、わたしが子どもだからだろうか。そんなことあってたまるか、と怒りたくなる。

実際、わたしはよく怒っている。

わたしは女性なら誰でも好きになるわけじゃない。わたしは好きになる性だけでなくわたし自身の性も大切にして恋愛したいのに。合コンに参加して異性愛者を擬態することがどれだけ辛いか。お前もレズビアンの合コンに誘ってやろうか。わたしが彼女に恋したことは、あなたが彼に恋したことより格下だったんだね。わたしが意を決して打ち明けたことは気まずさ故になかったことにされたのか。

こうやって、わたしは心のなかで反論する。すると、見えない相手から悪意が返ってくる。

生産性がない。気持ち悪い。普通じゃない。何かが欠けている。一時の気の迷いだ。

それらの言葉に、眩暈がして動けなくなる。だから、わたしは、声に出して反論することができない。嫌われるのが怖いのだ。独りになるくらいなら、わたしを理解してくれないやさしい友人と一緒にいたい。

けれど、時々、わからないのなら放っておいてほしいと思う。けれど、わかってほしいからまた関わりたいと思う。

こんな堂々めぐりのなかで、ひとりで生きていくのは辛すぎる。逢衣と彩夏のように、お互いを思いあう相手がいて、自分を強く保っても、辛いことはたくさんあるのに。けれど、被害者ぶって生きたくもないし、加害者にもなりたくない。

「どれだけ真面目に、どれだけ世間の気に入るように生きたって“普通”に必要な条件は次から次へと出てきて、絶対に追いつけない。偉そうに生きるつもりもないけど、俯いて生きるつもりもない」(下巻・p105)

やっぱり、生きていくしかない。